2011年1月22日土曜日

在日朝鮮人帰還事業

こちらの論文もまた、NPOネイビークラブ様より提供していただきました。


1 在日朝鮮人帰還事業とは
  昭和34(1959)年(今上陛下ご成婚)から昭和59(1984)年にかけて、在日朝鮮人とその家族を北朝鮮へ集団的に移住させる「在日朝鮮人帰還事業」が行われた。昭和341214日、最初の帰国船が新潟港から出航、数度の中断をはさみながら25年間続いた。60の在日朝鮮人のうち93,340が渡海し、そのうち少なくとも6,839が日本人妻やその子供といった日本国籍保有者だった。帰国した朝鮮人の95%以上は南朝鮮(韓国)地域出身だったので、韓国ではこれを北送事業と呼んで強硬に反対した。

昭和34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
59
帰国者
2,942
49,036
22,801
3,497
2,567
1,822
2,255
1,860
1,831
0
0
累 計
2,942
51,978
74,779
78,276
80,843
82,665
84,920
86,780
88,611
88,611
93,340












2 経緯と推移
朝鮮戦争で国土が荒廃、産業施設の多くが破壊され人口も激減した北朝鮮は、昭和302月、日朝友好関係と国交正常化を呼びかけ、赤十字チャネルで北朝鮮残留日本人の帰国を実現させ、その見返りとして在日朝鮮人の帰国について最大限の努力を払うことを日本赤十字社に約束させた。
昭和307月、朝鮮総連主催「朝鮮人帰国希望者東京大会」が開催され、それ以降熱烈な帰国希望者による座り込みなどの帰国運動が活発化した。昭和339月、金日成は建国10周年記念慶祝大会で「朝鮮人民は在日同胞の念願を熱烈に歓迎し、すぐに北朝鮮へ帰国し新しい生活を営めるよう保証する」旨の演説を行った。この式典に参加した日本共産党党員で歴史学者の寺尾五郎は、在日朝鮮人をこの世の地獄へと誘う上に大きな影響を及ぼす『38度線の北』なる悪書を著し、ベストセラーとなった。
昭和3310月、北朝鮮外務省は、「帰国旅費と船舶を負担、帰国後の安定した生活と職業を保証する」と表明し、日本側でも鳩山一郎元首相、浅沼稲次郎社会党書記長、宮本顕治共産党書記長らをメンバーとする挙国一致の「在日朝鮮人帰国協力会」が結成された。昭和342月、政府は北朝鮮帰還問題について「基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」ことを閣議決定し、「帰還希望者の意思確認と帰還意思が真意であると認められた者」の帰還実現に必要な仲介を赤十字国際委員会に依頼した。
この日本側の対応に対して、韓国政府は「北送阻止」を決定し、対日通商の断交を通告した。
昭和348月、「在日朝鮮人の北朝鮮帰還に関する協定」が日朝赤十字社の間で締結され、乗船までの費用を日本政府が負担し、帰国船の配船と帰国後の生活を北朝鮮政府が保証することなどを取り決めたカルカッタ協定が締結された。
同年12月、第1次帰国団を運ぶ専用列車が品川駅を出発、975名を乗せた第1次帰国船2隻が新潟港を出航、北朝鮮清津港に入港した。
帰国申請者は141,892件、申請取消が23,383件、意思変更が17492件という記録が残る。最盛期には毎週1,000人規模で帰還、帰国船回数は187回に及んだ。
 帰国船は外見こそ立派にみせていたが、内部はまったくの老朽船で悪臭と汚濁に満ちていた。船内で出された食事はすえた異臭を放ち肉は噛み切れないほど硬く、日本食に親しんだ在日朝鮮人にはとても箸が出せるものではなかった。「とんでもない間違いを犯したのではないか!」という不安が船内を支配したという。清津港の岸壁に立ち並んだ出迎えの人たちの群れを目撃した途端、不安は現実のもとなった。歓迎の人たちは、服装がみずぼらしく、どの顔にも生気がなく、一目で栄養不足とわかった。船内には不安と動揺が広がった。下船を拒む人も現れたが、北朝鮮の官憲に引き摺り下ろされた。
日本からの帰国者は、戦後民主主義の影響を強く受け、批判精神が旺盛で権利意識の先鋭な共産主義者や社会主義者が多く含まれていた。彼らは北朝鮮の遅れた制度や文物に容赦のない批判を加え、金日成の逆鱗に触れて思想改造のため強制収容所へ送られた。帰国者93,000人のうち2万人が強制収容所送りとなったものと推定され、その中の多くの者が病死又は拷問死しあるいは銃殺刑を受けた。
宮本顕治と共産党は昭和35年以降4回も訪朝しながら、帰国者とりわけ日本人妻の生活状況を視察して、待遇改善や里帰りの約束を履行するよう北朝鮮政府へ陳情することも一切していない。そればかりか帰国者の置かれた厳しい状況を日本国内へ知らせることもしなかった。
先遣隊を先に返した親戚・家族などでは、出発前に決めた手紙のなかの隠語や暗号によって北朝鮮の実情を察知した。もともと疑っていた上に、第1便、第2便の帰国者からの生の情報が次々と伝えられたため、帰還事業が開始されて1年もたたない昭和3511月頃から帰還申請者の数が激減していった。
帰還者のもたらす富や技術に気付いた北朝鮮政府は帰還者の増大を朝鮮総連へ指示した。指示を受けた朝鮮総連は、昭和36年、韓議長自ら先頭に立ち全国を行脚、帰還運動の盛り上がりを図り、「帰国者掘り起こし」事業を強力に推進した。「帰国者掘り起こし」運動を展開する中で、帰国して社会主義国家建設に協力しないものは愛国者ではないというアピールがなされたため、韓議長以下多くの朝鮮総連幹部の子弟が帰国させられ人質となり、北朝鮮による朝鮮総連支配力は一層強まった。

3 研究所見
() 官民の左右を問わず誰も反対せず、これほど翼賛的に推進された政策は他に例を見ない。各紙はこぞって帰還事業を歓迎し賛同する記事を書き連ねた。第1次帰国船にあわせて、主要各紙は大物記者を派遣し探訪記を掲載した。特派員は入江徳郎(朝日)などの著名な記者であったが、その記事は金日成の提灯持ち的なものであり、帰国者たちの直面した悲惨な現実を伝えるものはまったくなかった。マスコミの罪は極めて重いが、これに対する反省の言葉を耳にすることはない。
() 最も帰還事業を礼賛し宣伝した朝日新聞は、拉致など北朝鮮による国家的犯罪が明確になった後の平成16(2004)518日、「帰国事業は日本政府による朝鮮人追放政策」だったという記事を載せた。終戦から昭和30年代にかけて在日朝鮮人の犯罪率が極めて高かったこと、血のメーデー事件、吹田事件などの過激な行動に関与する在日朝鮮人が多かったことなどから、在日朝鮮人の帰国は日本政府として治安上歓迎すべきことだったに違いない。しかし日本政府はあくまでも人道問題を第1と考え、北朝鮮側の朝鮮総連の申請書だけでいいという強硬な主張を斥け、厳格な本人の意思確認と第3者によるチェックを譲らなかったことということも事実であり、そのことは率直に評価すべきである。
 
希望者が増えたのはなんといっても『完全就職、生活保障』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想をつかしながらも、二度と戻れぬ日本を去って“未知の故国”へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。ところが、第1船で帰った人たちに対する歓迎振りや完備した受入態勢、目覚しい復興振りなどが報道され、さらに『明るい毎日の生活』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏み切ったようだ。
【昭和35226日付け(朝日朝刊)のキャンペーン記事】
() 「なぜ韓国ではなく北朝鮮へ帰国したのか?」という疑問が湧く。当時李承晩政権は経済的な理由から在日の永住帰国を事実上閉ざしていた。そのためかえって潜在する祖国への思いが高揚したものと思われる。事実、1965年の日韓国交正常化以降いつでも帰れるようになると、その熱烈な感情は色褪せた。在日韓国人の帰国に消極的だった韓国政府の対応にも一端の責任があると考えざるを得ない。
() 北朝鮮による日本人拉致が始まるのは、在日朝鮮人帰国者数が激減する昭和37(1962)年以降であるのは偶然だろうか。年表的にあるいは両者に共通した目的(技術の入手等)から憶測するとき、在日朝鮮人帰還事業と日本人拉致事件は見えない一筋の糸で結ばれているように思えてならないのである。
*資料源  ❶ 「わが朝鮮総連の罪と罰」 韓光熙(元 朝鮮総連中央本部財政局副局長)
❷ 「朝鮮総連」 金賛汀(朝鮮大学校卒、元 朝鮮総連職員、ノンフィクション作家)  ❸ インターネット資料

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