2011年1月25日火曜日

神人共生【テキスト】

ブログ読者の方から「読みたい」というご要望をいただきましたので、朗読の原稿を入手いたしました。


第一回:神人共生

くにからを ただひたすらに まもりぬく いわいまつりし ひとすじのみち

 祭祀とは、くにからを守るための実践的な行動です。観念や理屈の世界ではありません。実践の世界です。お父さん、お母さん、お祖父さん、お祖母さん、そして、さらに遠い遠い御先祖様に感謝し、さらにさらに上にさかのぼれば、御皇室の御先祖様、つまり、皇祖皇宗、八百万の神々へと連なつて行くという確信を抱くことになり、そのことを清く素直に受け止められる者であれば誰しも感激するのです。私たちの御宗家がご皇室であることに感激するのです。
 「すめらみこと」とは、「統一された命」を意味します。私たちと御先祖様のすべて命と霊を束ねれば、その源は天皇宗家となるからです。そして、私たちが生かされてゐるのは、御先祖様から命と魂を途切れることなく受け継いできたことの奇跡によるものです。かたじけなや、申し訳なや、といふ感動と感激、それに恥じらいを感じて、おそれおほき道を歩み続け、そして、いとしい子孫を生み育て、家族はとこしへに生き続けるのです。それを実感して実践するのが祭祀の道です。

 日本書紀によると、推古天皇十二年四月(皇紀1264年)に推古天皇の摂政であらせられた聖徳太子が憲法十七条(いつくしきのりとほあまりななをち)を定められ、その第二に、「二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは佛・法・僧なり。」とあり、仏教を受け入れました。このことから、我が国の「くにから」が変わったとする考えがありますが、決してそうではありません。なぜならば、その三年後に、推古天皇ご自身が御詔勅を出されましたが、それによりますと、「祭祀神祇、豈有怠乎」(あまつかみ くにつかみを 祝いまつること、あに おこたることあらんや)とあります。つまり、「仏教」は徳目として「敬ふもの」(観念論)であり、「祭祀」は「怠つてはならないもの」(実践論)ということです。それゆゑ、我が国は、揺るぎのない「祭祀の国」であり、それが國體(くにから)なのです。

 御先祖様は、子孫から見れば「上(うえ、かみ)」の存在であり、それが「神」の意味です。決して、絶対神、唯一神や創造主を意味する「God」ではありません。この「God」を「神」と訳したのは、精神文化面における我が国最大の誤訳と言えます。ともあれ、宗教で説く神仏は理性の働きによる想像の産物であり、人々がそれぞれが信じる神仏はバラバラで一致しません。一致しないことから、それぞれの神仏の優劣に決着を付けるために戦争をするのです。宗教は、人を救うための教えであると言いながら、人殺しをするのです。なんといふ矛盾でしょう。その上に、「この教へを信じなければ地獄に落ちるぞ!」と言つて、人を脅して信心帰依させるのです。恐怖から出発した信心です。こんな信心は本物ではありません。信心ではなく、恐怖心の裏返しにすぎません。また、人の恐怖心や不安を煽つて「宗教的営業の成果」(入信成功)を得るというのは、最も卑劣な行為であり、そのやうな教祖たちは、自らの描いた「地獄」の世界に指定席を持つているはずです。

 そして、このやうな宗教に共通するのは、自らが信心の中心に描いた絶対神や本尊と信者との間には何も存在しないとすることにあります。つまり、御先祖様は全く存在しないものとするのです。御先祖様の彼方に絶対神や本尊があるとはしないのです。その結果、祭祀は全否定されるのです。祖先供養や祖先崇拝を否定します。仮に、祖先供養を認めても、絶対神や本尊への忠誠と信心に反しない限度で認めるだけです。それも法事などと称する宗教的営業として利用するのです。

 これに対し、祭祀の場合は、人を殺しません。敵であつても、その敵の御先祖と我が御先祖とが重なりうることを想起すれば、争いは解消する方向に向かひます。過去に、「宗教戦争」は数限りなくありましたが、「祭祀戦争」はこれまで一度もありません。いわば、祭祀は、御先祖様を御本尊とする宗教のように捉えることもできますが、これが宗教と決定的に異なるのは、それぞれの父母といふ御先祖への「登り口」は違つても、そこから目指す頂上の方向は万人共通の融合一体のものであるという点です。それが「世界のすめらみこと」です。
 祭祀からみると、宗教における神仏というのは、御先祖様の総体から生まれる働きを可視化、具象化したものと捉えることができます。仏が本質(本地)であり、その現象が神々の働き(垂迹)であるとする本地垂迹説という見解がありますが、これと同じやうな方法で捉えるとすると、御先祖様の総体が本質(本地)で、その智恵の働きを個別的に可視化し具象化したものが神仏と捉えればよいことになります。これは、反本地垂迹説といふことになります。

 このやうな祭祀と宗教との関係などについては、國體護持総論(普及版シリーズ)第一巻「くにからのみち」を参考にしてください。そして、この連載においても、回を重ねながら折に触れてさらに詳しくお話する予定ですが、この連載の目的は、あくまで祭祀実践の具体的な事例や手引きなどについて語るものです。

 そこで、今回はその第一回として、「神人共生」について述べます。

 私たちは、祖霊と共に生活しています。御先祖様の「から」(柄がら、體からだ)はなくなつても、「たま」(霊れい)は私たちと共に暮らしてゐます。御先祖様は、たとえ地獄に落ちようとも子孫の家族を守ります。それが見返りを求めない親心です。自分だけ天国や極楽に行つて満足し、子孫などはどうなつてもよいと考へている御先祖もあるでしょうが、真に霊格の高い祖霊は、子孫やその家系を守り続けるのです。
 人には、自分自身を守るという本能があります。しかしもその本能よりもさらに高次の本能として、自分が犠牲になつてでも、命を捨ててでも家族を守ろうとする本能があります。さらに、もつと高次の本能には、自分の命を捨ててでも祖国を守ろうとする本能があります。自分が連綿と続く家族に育まれた存在であることを自覚すれば、家族を守ることは喜びになります。そして、その家族を守つていただいた御先祖様と共に暮らしてゐるといふ感激があれば、朝起きれば、「お早うございます。」と声を出して御先祖様にご挨拶できるはずです。心に思つてゐるだけではダメです。必ず声を出してください。歌を楽しむとき、楽譜を見るだけで声を出さないのでは楽しめないでしょう。それと同じです。声に出して、御先祖様と自分とが共に楽しさと喜びを分かち合えばよいのです。これが「神人共楽」です。

 朝の御挨拶だけではありません。出かけるときは「行つて参ります。」、帰つたら「ただいま帰りました。」、寝るときは「おやすみなさい。」と常に声に出して御挨拶することです。
 単身生活の人、家族などとの共同生活の人など、様々な生活の形がありますが、それぞれの生活の場で、清く聖なる空間を確保してみてください。そこを祖霊の座として、そこに向かつて御挨拶するのです。
 また、食事をするときは、祖霊と共にいただくことを感じながら、柏手を一回して「いただきます。」と声を出してみてください。これは、「神人共食」です。すべては言霊、音霊の世界であり、喜びと感動の表現と共鳴を意味します。

「神人共楽」と「神人共食」。併せて「神人共生」なのです。

平成21年12月22日(冬至)に 南出喜久治著す

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