2011年6月21日火曜日

100年前の日本の写真

こちらから写真を転載させていただいてます。
http://digi-6.com/archives/51741356.html

イタリア人の写真家が撮影した100年前の日本だそうです。




















きれいな写真です。

今では洋服を着て、家電製品に囲まれ、鉄筋コンクリートの箱の中に住んだり働いたり。
そんな日本です。
自然の豊かさは依然として残っていますが、その自然の豊かさと沿うように私たちが暮らしているかと言えば、違うように思います。

今回の原子力発電所の事故で何を考えましたか?

『日本の暦』の中の人たちの何人かは被災地に行って、いろいろなものを見てきました。
誰も作業をしていない広大な田畑、放射線量の高いところで無防備に過ごしている子供たち、避難所から生まれた町に戻ってなんとか日常を取り戻そうとしている人たち。
そして東京や神奈川でも放射性物質がいたるところで検出され、それが東北の問題ではなくて日本の問題であることを実感しています。

依然として原子炉からの放射性物質の漏洩は止まっていません。
止まっていないのだから、後から後から放射性物質は広い範囲に拡散しているはずです。
「○○県の浄水場で基準値を超える放射性物質が検出された」というニュースがありましたが、放射性物質の拡散が止まったわけではないので、引き続き検出されているはずですが、最近はあまりニュースになりません。
情報統制が行われているのでしょう。

しばしば、軍事独裁下の北朝鮮や共産党支配下の中国に対して、民主主義がない、自由がないという批判を目にします。チベットやウィグルの人々への弾圧や拉致への批判を目にします。

ふり返って日本の現状はどうでしょうか?
さしずめ占領下の官僚独裁という様相ではないでしょうか?
原発利権というものの存在が浮き彫りにされていきます。
その利権の下で政治家、官僚、学者、メディアが口裏を合わせたように情報を操作しています。
そしてその体制は原発周辺の人々を見捨てている状態です。
健康被害を受けるだろうことを知りながら見捨てている状態です。
少し過激な書き方をすれば「ただちに殺さない大量虐殺」のようにも見えます。

反原発、脱原発、原発推進、原発容認などいろいろな立場の人が論争をしています。
論争をしている間に、どんどん汚染が広がり、福島の農家を中心に人々が追い込まれて行きます。
論争の元になっている情報は操作された情報かもしれません。
自分で見て、自分で感じて、自分で考えて。
そういうことが求められていると思います。

このブログは「自立再生」をキーワードに、それに関連するテーマで数名が投稿をしています。
元に戻すだけなら復旧や復元という言葉でいいでしょう。
復興というからには、「興す」わけですから、より創造的な意味合いを持つことになると思います。
既成の考え方にとらわれず、新しい考え方で家庭、地域、日本を自立再生に向かうという流れが考えられると思います。

「自律型の生活単位」がたくさん「分散して存在」していて、それらが「技術と情報を交換」しながら必要に応じて「協調」するようなモデルが良いのではないかと思います。
「自律」「分散」「技術・情報」「協調」ですね。

何も問題がなければ「自律型の生活単位」だけで生きていけるという形。
この生活単位の中で発電、浄水、食料生産、資源の再生をする。最初は村や町の単位かもしれませんが、これをどんどん小さくしていき最終的には家庭単位に。

このような形態になると、およそ官僚の利権などというものが入り込む余地がなくなります。そして、今の「あらゆるところに網をかけたような税金の仕組みと関連する法制度」が邪魔であることに気がつくでしょう。
今までは、税金が吸い上げられていても、制度でがんじがらめにされていても、そうするしか仕方がないから従っていた、ということだったのではないでしょうか。

このような生活単位が、技術と情報を交換することでさらに発展し高度化します。高度化しますが、生活単位は小さいまま、あるいはもっと小さくなる。決して拡大や発散はしない。
拡大しないから統制する権力も小さくて済む。

小さな生活単位ではできないこと、例えば専門性を要する医療や消防・警察などの機能は複数の生活単位が協調して連合体として対応する(維持費を分担して運営する)。どこかの生活単位が危機に陥れば、すかさず他の生活単位や連合体がバックアップする。

生活単位を小さくするために行う技術革新はたくさんあると思います。
情報を交換するための技術革新もあると思います。
収束方向に向けた経済発展というのがあると思います。

よく考えてみたら、コンピュータの世界ではトレンドですね。

先日飯舘村(福島県相馬郡飯館村)の方と話をしていて、「学校の給食の食材は全部自給自足でやってたんですよ」「自給自足で生きると決めてみんな頑張ってきたんですよ」なんていう話を聴いていて、自給自足から自立・自律という流れを目指すと、いいことがたくさんあるんじゃないかと思いました。

発電、蓄電、送電を個人がやろうとすることを邪魔しようとする力。
食料自給を邪魔しようとする力。
資源の再生を邪魔しようとする力。
自給自立に向かっていくと、そういう力が現れるかもしれません。(今までもありましたが)
そういうものが私たちの敵なのでしょう。

上の写真のようなきれいな日本をまた見られるでしょうか。
きっと無理でしょう。
進んでしまった時間は戻せませんが、時間が進んだ分、生活も精神も進んだと思えるような生き方をしたいものです。上の写真とは違うけれど、別のきれいな日本が目の前に現れるかもしれません。

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