2011年9月23日金曜日

大日本帝国憲法 入門の入門(6)立憲主義(法の支配)その2 国民主権(民主主義)は左翼思想です

こちらからの転載です。
http://ameblo.jp/sangreal333/entry-11025954151.html


 こんばんは。(`・ω・´)シャキーン

前回のおさらいを簡単にしましょう。覚えているかどうか試してみて下さい。

Q:憲法とは何か?

A:憲法とは国体(その核心は天皇による祭祀と天皇による統治)に関わる道徳や慣習、伝統などの不文の規範のことである。これらの規範のことを「」とも呼ぶ。

Q:「法」と「法律」の違いは?

A:「法」は道徳や慣習などであり、不文法であって、我々の先祖の英知の結晶であり、誰が定めたか分からないものであるが、「法律」は成文法であり、定めた者(立法者)がはっきりしている。そして「法律」は「法」の下位に位置し、法に従属する。「法律」は「法」に違反して制定されてはならない。

Q:「立憲主義(法の支配)」とはどういう意味?

A:「法」はすべての国家機関の上位に立つものであり、内閣・議会・裁判所などの全ての行為は「法」に反して行われてはならない。「法」に反する命令・立法・判決などは無効となる、という意味。


さて、今日はこの立憲主義(法の支配)に反する観念である「国民主権(民主主義)」についてお話したいと思います。「基本的人権」についてもお話する予定でしたが、長くなってしまいましたので次回の「その3」でお話します。

ここで、少し違和感を持たれた方もいらっしゃると思います。国民主権とか、民主主義とか、基本的人権・・・みんな教科書で大切なものだと習ったものばかりだ。これらが否定されれば、自由などなくなってしまうのではないか?立憲主義と国民主権や基本的人権は、お互いに矛盾しないものではないのか?

実は、それは全くの誤解なのです。国民主権(民主主義)や基本的人権というものは、立憲主義(法の支配)を破壊して国民の自由を奪う、非常に危険な思想を背景にしているのです。

そもそも、国民主権(民主主義)とは一体どういう意味なのでしょうか。話し合いで政治を決めていくこと?そんな風に習った方もおられるかもしれませんが、それは完全な間違いです。話し合いで政治について決めていくというならば、これは正しいことです。しかし、国民主権(民主主義)とはそういう意味ではありません。

「主権」という言葉にはいくつかの意味があります。国民主権の「主権」というのは、「その国家のあり方についての完全で最終的な決定権」という意味なのです。

つまり、国民主権(民主主義)というのは、「その国家のあり方についての完全で最終的な決定権を国民が持つ」という意味なのです。これは大切なことなのでしっかり覚えて下さい。国民主権(民主主義)とは、「話し合い」で政治について決定していくという意味ではありません。そう誤解されている方が非常に多いようですが、とんでもない間違いです。

それでいいじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、これはとんでもないことなのです。これは、国民の意思で、自分たちの住んでいる国家を好きなように作り替えることができますよ、ということなのです。民主主義というのも民主、すなわち民が国の主である、という宣言なのです。国というものは民の意思で好き勝手に作り替えることができるのだ、ということなのです。

それのどこがよくないの、もっといい国になるなら構わないではないか、と言われる方もおられると思います。しかし、よく考えてみて下さい。

国家というものは、何百年、何千年という長い歳月を経て徐々に形成されてきたものです。人と人の間には様々な複雑な関係が存在します。国家という大きな人口を抱え、互いに複雑な利害関係を生じ、しかも外部には他の国家という敵となり得るものと対峙せざるをえない存在において、この内部を秩序立てていくことは容易なことではありません。

国家のあり方を決めるのは、到底一人の英雄とか天才とか、あるいは知識のあるエリートの集団とかにできることではないのです。どんな人間であれ、そのような頭脳を備えた者はいません。そんなことは人間の能力の限界を超えることです。現に歴史がそれを証明しています。

国家というものを秩序立て、そのあり方を決めているのは、以前にもお話しましたが、そのような特定の人物や集団ではなく、誰が決めたか分からないながらも、古来から守られてきた英知の結晶である、国体に関わる道徳や慣習や伝統なのです。

これらの道徳や慣習や伝統は、何百年、何千年という時の試練を経て国民を秩序立て得ることが証明されているため、神聖なものなのです。

だからこそ、法律や命令なども一人の頭のいい人が一から考案するよりも、このような道徳や慣習などに基づいて制定(というよりむしろそれらの道徳や慣習を再確認する)するほうがうまくいくのです。法律を制定するならば、必ず祖先の英知に学ばねばならない、ということなのです。

しかし、「国民主権」の「主権」はこれらのことを否定します。「国民の意思」さえあれば、そのような道徳や慣習など無視しても構わないと主張します。話し合いが必要だということさえも当然には前提にしません。ひいては、国体に関わるような道徳や慣習や伝統さえも、国民が賛成すれば変更することができるというのです。

それならば、話し合いがされればいいのでしょうか?例えば、国体に関わるような道徳や慣習や伝統を変更するような法律を制定しようとしているとします。それが国民の間で繰り返し話題にされ、世論調査もされ、議会でも何度も何度も話し合いがされた。その結果、その法律を制定しようということに議会では議決された・・・このような場合、その国民は国体を変更できるのでしょうか?

以前からこのブログをお読みになって頂いている方はお分かりかと思いますが、これはできません。国体を変更することは、誰にも、いかなる場合にも不可能です。我が国について言えば、入門の入門(2)でお話したようにたとえ「天皇といえども国体の下にある」のです。

いくら話し合いに話し合いを重ね、世論調査をし、時間をかけ、賛成だという結論に至ったとしても・・・特に我が国の如く、数千年の長きにわたって形成されてきた偉大な祖先の英知の結晶たる国体に関わる規範を、我々にそれを覆し得るだけの知見が備わるはずはありません。数千年に及んで培われてきた国体に関わる規範を否定できる知見を有する者などいないのです。能力も権利も、ありません。

国民主権による国体破壊が暴力を伴うものになると、革命と呼ばれます。革命は国体を破壊して新しい国家を一から建設しようとするものなのですが、人類の歴史に照らすならば、ご存知のように、これらの革命はいずれも大量虐殺や強制収容所に代表される自由の抑圧など、悲惨な結果をもたらしました。

しっかりと、心に留めておいて頂きたいのです。「国民主権」というものは、国体を破壊する革命思想であり、祖先の英知を否定する傲慢な左翼思想のプロパガンダであるということを。この言葉を単なる「話し合いによる政治」の意味に使っていても、言葉というものには命があります。必ず危険な左翼思想に引きずられていくことになります。

言うまでもないことですが、誤解のないように言っておきますと、立憲主義(法の支配)の下においてもいわゆる「合議制」(話し合いによる政治)を否定するものではありません。それどころか話し合いによって、国体を害さない範囲で政治について決定していくというのは、むしろ我が国古来の伝統でさえあります

『古事記』に見られるように、高天原の神々も合議によってことを決しています。神々の世界は天照大神の独裁(天照大神の主権)ではありません。人の世となり、天皇の治らす代となっても豪族による合議で政治は決せられていきます。合議制こそはむしろ、我が国の国体の一部であるとさえ言えるでしょう。


次回は国民主権と同じく左翼思想に根ざす危険な観念「基本的人権」についてお話いたします。 (*´ω`*)

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