2012年2月25日土曜日

大日本帝国憲法入門(23)

 こんばんは。皆様のご支援のかいあって、このシリーズ『大日本帝国憲法入門』も今回で無事、最終回を迎えることとなりました。次回より、『皇室典範入門』を開始いたします。これまで以上のご愛読をどうぞよろしくお願い申し上げます。


 私が、このブログを立ち上げた趣旨は、

① まず、保守思想というものが存在し、我が国の政治も古来よりそれに従って行われてきたことを広く知って頂くこと。

② 大日本帝国憲法その他、不文憲法(法)を確認し、それを成文化した法典こそが正統の憲法典たり得ること。

③ よって、『日本国憲法』は実質的・内容的に憲法たり得ず、まずは大日本帝国憲法が現在も存在していることを確認した上で、これを適宜改正すべきこと。


 以上3点を訴えるためです。


 今回をもって、大日本帝国憲法の条文の解説は一旦終了致します。しかし、次回より開始する『皇室典範入門』、現在進行中の『保守思想入門』では更に一層の保守思想の分かりやすい解説とその普及に心を尽くし、上記の①②③の解説に心を砕いていく所存ですので、今後ともよろしくお願い致します。

 また、このシリーズ『大日本帝国憲法入門』においては、いずれ大日本帝国憲法が復元、現存が確認された際になされるべきであろう大日本帝国憲法の改正について、「改正の限界」について確認するという作業を随所で施したつもりです。すなわち、各条文について、それらを国体に関わる規範(不文憲法を成文化したものであり、改正できない)とそうでないもの(不文憲法とは関わりのないもので、改正できる)を分けるという作業です。

 これによって、改正の限界を明確にし、将来の大日本帝国憲法復元の際の改正の一助たるべきことを目指したつもりではありますが、まだまだ論じるべき点は多く、いずれは更に詳細な保守思想の憲法学についての解説も何らかの形で始めるべきことも考えています。

 さて、これまで何度もお話してきましたところから明らかなように、「憲法改正」というのはあくまでも我が国の正統な憲法典(成文憲法)たる大日本帝国憲法の改正でなければなりません。憲法典ではなく、講和条約としての法規範性しか持ち得ない『日本国憲法』を改正することは無意味かつ徒労でしかないのです。
 
 * これまで、『日本国憲法』を『』つきで記載してきたのには理由があります。これは、あくまで『日本国憲法』という名称の講和条約であり、憲法典ではないということを強調するがゆえの記載でした。

 そこで、この最終回では大日本帝国憲法復元の際、様々な改正案が出てくるであろうことを考え、私自身の改正箇所を簡単ではありますが、ここに記してこのシリーズを終わりたいと思います。

 

 
【大日本帝国憲法の改正すべき箇所の提案】


 
 <成文憲法(憲法典)を「改正」するということ>


 憲法を改正する、という言い方はよくされますが、これは正確には成文憲法(憲法典)が不文憲法に合致しているかどうか再確認する、ということです。そうでない「改正」は改正の限界を越えるものであり、不文憲法に照らして無効です。成文憲法の改正の限界とは、不文憲法に違反していないこと、なのです。

 まだまだ私自身、改正について深く考えたわけではありません。もっと更に歴史的、文化的な考察を背景とした不文憲法の確認が必要となるでしょう。今回挙げるのは現時点でのほんの一案に過ぎません。今後、様々な形で改正案が出てくるようになればと思っています。


1 第22条と第29条の、「法律ノ範囲内二於テ」の文言を削除

 
 第22条は居住と移転の自由、第29条は表現の自由を定めたものです。これらの権利には、条文上「法律ノ範囲内二於テ」という文言が付されています。

 さて、法律を審議可決、協賛するのは帝国議会の責務ですが、これらは議会の多数決により行われます。そうすると、「表現の自由が『法律の範囲内において』認められる」というのは、議会の多数派が表現の自由を、自分たちで制限できてしまう、という意味なのだ、という解釈もできてしまうのです。このように、臣民(国民)の権利を法律の範囲内でだけ認める(多数派が少数派の権利を制限できる)という理論を「法律の留保」といいます。ドイツのオットー・マイヤーという学者によって唱えられた説です。

 しかし、これは明らかに不当です。表現の自由は臣民の権利であって、国体の下に認められた自由です。にも関わらず、これを議会での多数派が制限できるとすることはまさに「国民主権(民主主義)」的な発想であり、立憲主義(法の支配)の精神に反するものです。

 法律の留保説は、立憲主義(法の支配)を理念とする大日本帝国憲法では認めるべきではありません。従って、「法律ノ範囲内二於テ」の文言は「(立憲主義に反せず有効とされる)法律の範囲内において」というように限定解釈されるべきです。
 
 従って、このような誤解を生み、誤った運用のされる恐れの大きい「法律ノ範囲内二於テ」の文言は削除し、何らの留保も付さないのが立憲主義の精神に合致するのです。

 

2 「適正手続の原則」を明文化する


 さて、これまで散々『日本国憲法』を批判してきました。確かに、『日本国憲法』はその基本理念が憲法たり得ず、ゆえに憲法典たり得ないのですが、そのような基本理念を無効化した上で、憲法規範として取り入れるべきものもあります。新無効論において、『日本国憲法』のうち、大日本帝国憲法に反しないものとして認め得るもの、すなわち立憲主義(法の支配)の理念に合致するものです。

 たとえば、『日本国憲法』第31条は、このような規定です。

 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

 実は、この規定はイングランドのマグナ・カルタ第39条に由来するものです。これは、刑罰を科すには裁判などの法律の定める手続きによらなければならず、たとえば議会による多数決や君主の独断で刑罰を科すことを絶対に禁じたものなのです。もしもこのようなことが行われれば、少数派の権利は多数派によって踏みにじられ、その国家からは自由が消滅してしまうでしょう。

 そして、このような趣旨の規定であれば、立憲主義(法の支配)の理念の下で運用されるのであれば国民主権(民主主義)に対する歯止めとなり、まさに大日本帝国憲法の精神に合致するものです。

 よって、大日本帝国憲法にも『日本国憲法』第31条と同じ、または同旨の規定を明文化するべきです。



3 裁判所による違憲立法審査制を導入


 立憲主義(法の支配)の理念からは、帝国議会によって協賛された法律を、果たしてそれが成文憲法、ひいては不文憲法に違反していないか審査し、もしも違反している場合にはそれを違憲無効とする機関が必要となります。そして、その審査は法律の実質的内容について行われるため、法律の専門家によるべきです。
 
 よって、大日本帝国憲法においても明文で違憲立法審査制を規定し、裁判所による法律の違憲審査を認めることが、その立脚する立憲主義(法の支配)の趣旨にかなうものといえます。

 『日本国憲法』においては第81条で違憲立法審査制が明文化されています。大日本帝国憲法においても、同旨の規定を設けるべきです。

 なお、この点については大日本帝国憲法入門(19)でも述べていますので、そちらも参照下さい。

 上述のように、これらは単なる一つの案であり、完全なものではありません。また、他にも改正箇所はまだまだ出てくるでしょう。皆様のご意見をお聞かせいただければ幸いです。




 さて、以上をもって『大日本帝国憲法入門』シリーズを終了致します。次回の『皇室典範入門』をお楽しみに。ありがとうございました。




 このブログはこちらからの転載です → 『大日本帝国憲法入門』

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