2012年10月11日木曜日

山口良忠判事 餓死事件

山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年11月16日 - 1947年10月11日)は日本の裁判官。佐賀県出身。
太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け栄養失調で死亡した事で知られる。

山口判事の死を伝えた朝日新聞の第一報(西日本版)は、社会面トップに「食糧統制に死の抗議 われ判事の職にあり ヤミ買い出来ず 悲壮な決意つづる遺書」との四段ぬきの大見出しで報道され、死の床につづられた日記の一節であるとして以下の文章が掲載された。

「食糧統制法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せなければならない。自分はどれほど苦しくともヤミの買出なんかは絶対にやらない。従つてこれを犯す奴は断固として処断する。自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつつも、その法律のために潔く刑に服した精に敬服してゐる。今日法治国の国民には特にこの精神が必要だ。自分はソクラテスならねど食糧統制法の下喜んで餓死するつもりだ。敢然ヤミと闘つて餓死するのだ。被告の大部分は前科者ばかりだ。自分等の心に一まつの曇があり、どうして思ひ切つた正しい裁判が出来やうか。弁護士連から今の判検事諸公にしてもほとんどが皆ヤミの生活をされてゐるではないか、としばしばつき込まれたではないか。
自分はそれを聞かされた時には心の中で実際泣いたのだ。公平なるべき司直の血潮にも濁りが入つたなと。願はくば天下にヤミを撲滅するために、よろこんでギセイとなることを辞せない同志の判官諸公があつて、速かに九千万国民を餓死線上から救ひ出したいものだ。家内も当初は察してくれなかつた。それもそのはずだ。六つと三つのがん是ない子をもつ母親として「腹がへつた、何かくれないか」と要求される度に全く断腸の思ひをし、夫が判官の精神を忘れること、世のたとへに言ふ「親の心は盲目だ」で、ついアメの一本でもと思つたのも実に無理もなかつたであらう。」

この山口判事の行為は餓死事件と言うよりは、自決行為と同様ではなかったか。単なる遵法精神で栄養失調にまで至ったのではなく、闇米を所持して食糧管理法違反に問われた人の裁判を担当していた山口判事自身が、闇米を口にすべきではないという考えがあった。
大日本帝国憲法の第57条に「司法権ハ天皇ノ名ニ於(おい)テ法律ニ依(よ)リ裁判所之ヲ行フ」という条文がある。山口判事はこのことを非常に重んじていた人物であった。天皇の名に於いて行う裁判官が闇米を食べて、一方で闇米を買った人々を裁く、それは天皇を辱めることである、そのような考えであった。つまり山口判事は大日本帝国憲法に殉じた死を選んだのである。尚、その自らに厳しい態度から、食糧管理法違反で逮捕された人々に対しても過酷であったのではないかと思われがちであるが、むしろ同情的であり、情状酌量した判決を下す事が多かったと言われる。