2013年3月2日土曜日

ココロのおうた、お詠みします (皇紀2673年3月2日)

私の名は安倍正行(あべのまさつら)。
人呼んで詠(うた)ふせぇるすまん。ただのセールスマンぢやございません。
私の取り扱ふ品物は「おうた(和歌)」、人間の心でございます。ホーホッホッ…。

この世は老いも若きも男も女も、心のさみしい人ばかり、そんな皆さんの心のスキマに和歌をお詠み致します。
いいえ、お金は一銭もいただきません。お客様が満足されたらそれが何よりの報酬でございます。

さて、今日のお題は…「お米さま(稲穂)」

おむすひは ひとのこゝろを よりあはす むすひのかみの ゆにはのいなほ
(おむすびは 人の心を 縒り合はす 産巣日の神の 斎庭の稲穂)

お米が好きだ!おむすびが好きだ!といふ心があれば、解説は無用のものと思ひます。
分からない言葉があるやうならば、検索するなり、辞書を引くなりと調べて下さると嬉しいです。

昨今騒がれてゐる「TPP」にしても農業だけの問題だと未だに誤解されてゐる節があり、我國の在り方、自主性を破壊する危険性が全く報道されませんね。

この「TPP」「道州制」といふ売國法案を推し進めてゐる者は、私と同姓ださうです。
安倍姓(あべのかばね)の名折れです。お恥ずかしい。
さういへば彼は「國旗・國歌法」といふ伝統破壊の惡法にも關与したらしいですね。
彼とその狂信者達は「保守」と自称してゐるらしいですが、まさに「米國隷従体制の保守」といふ事大主義です。

更にいふならば、彼らのやうな「新自由主義者のいふ自由」とは、「本来の自由」といふ意味ではありません。
お米さまを例にしてみれば、彼らのいふ「自由」とは競争に勝利した者だけが「高級なブランド米」を食べ、競争に敗れた者は「支那のプラスチック米」を食べろといふ事であり、単なる格差社會推進でしかありません。

力を持つ者は好き勝手に、自由であつて良いといふ事に繋がり、我國の規範的な道徳・道理とは真逆です。
それを歴史に學びたいならば、平家物語でも太平記でも國史は宏遠であり、御聖徳は深厚です。

これを糺す爲にTPPへと参加するならば良いですが、現状では自主独立を恢復してゐない我國がその主導権を握れるはずもありません。
軍事占領下に外つ國と交はした約定を、我國の掟だと錯覺してゐるやうでは、自國内すら纏まらない。

因みに、私自身は競争も好きですが、行き過ぎた競争は武士道にも悖ります。
それに、そもそもお米さまを巡って競争する必要はないのです。
生き馬の目を抜く社會で、市場主義の影響下にある會社(株主)のいいなりになつて、人間性を擦り減らしながらあくせくと働かなくとも、事實として私達は十分に仕合せになれるのです。強國や貨幣の奴隷ではないのです。

今後、本来の日本社會を恢復させてゆけば、貨幣など必要最低限あれば足りるといふ實感が百姓でもある私にはあります。
そもそも紙幣そのものは、紙切れ以上の価値を持ちませんから、理に適つてゐると思ひます。

はたらけど かせげども うらがなし たまるくがねは ただのかみきれ
(働けど 稼げども 心悲し 溜まる黄金は 唯の紙切れ)


うぶすなに いなほのめぐみ うれしけれ すこやけくあれ いねもこどもも
(産土に 稲穂の恩 嬉しけれ 健やけくあれ 稲も子供も)

皆、自分達で頂くお米は自分で賄ひ、足るを知れば、争ひの原因すらなくなります。
短期的に見れば作柄にも左右されますが、籾米は長期の備蓄も可能です。陳倉米といふものです。
今様にいへば「ヴィンテージ米(?)」でせうか。

あまくだる みずほのくにの うましこめ もろひとつどへ いただきませう
(天降る 瑞穂の國の 美味し米 諸人集へ 頂きませう)

南洲翁(西郷隆盛)遺訓。
「政(まつりごと)の大體は、文を興し、武を振るひ、農を励ますの三つにあり。其他百般の事務は皆この三つの物を助くるの具也。」
この三つを御座なりにして、其他の事務だけで國家運営をしやうといふのが昨今の政でせう。
政の大體を安定させる爲に備へるのが政治家の仕事ではないでせうか。

我國の本来の在り方とは御神勅にまで遡ります。
伊耶那岐命、伊耶那美命の「修理固成の神勅」、天照皇大御神の「天壌無窮の神勅」「寶鏡奉斎の神勅」「斎庭稲穂の神勅」。
これらの理想を實現する爲、我國は肇りました。
肇國にあたつての「即位建都の詔」には、蒼生安寧(大御宝(民)の利益)と八紘為宇(天下を掩い家と爲す)。

あめつちの きはまりもなき きみがよに ならへわがやの ぞうにのもちよ
(天地の 極まりもなき 君が代に 倣へ我家の 雑煮の餅よ)

これらの理想をただの御題目とせず、道理を知らす統治を爲されてきたのが皇室です。
そして、我々の御先祖も克くこれを輔けたからこそ、我國は今日まで続いてゐる訣です。

人はパンのみに生くるに非ずといはれますが、まず食べねばなりません。
これらの道理を持つて、キリストより遥か以前から實踐してゐたのは我國です。
それは何も特別な事ではなく、我々日本人の感覚としては当たり前の道理だとも思ひます。
しかし、それは人類普遍の道理でもあり、本来はその道といふものすら必要なかつたのでせうね。
時代が進むに連れて、我々人類は伝統的な叡智を忘れて、徐々に衰退してゐるのではないでせうか。

そんな中で、先の見える筈もない博打経済の先行きが、何だか心配になつた貴方!
取り敢へず、美味しいお米さまの「おむすひ」を頂いて元気を出して!

私達と倶に本来の豊かさを取り戻しませう!



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